はじめに:繰り返される悲劇。「接近禁止命令」という紙切れの限界
2026年3月、東京・池袋の商業施設で、20代の女性が刃物で命を奪われるという痛ましい事件が発生しました。加害者の男は犯行直後に自らも命を絶とうとしました。この事件の最も残酷な事実は、被害女性が事前に警察に相談し、加害者には「ストーカー規制法に基づく接近禁止命令」が出されていたということです。警察も定期的に連絡を取るなど、現行のルールにおいて「できる限りのこと」は行われていました。それでも、彼女の命を救うことはできなかったのです。
この記事の結論を先にお伝えします。それは、日本の「法律による警告(接近禁止命令)」や「事後的な警察の対応」だけでは、殺意を持ったストーカーから被害者の命を守り切ることは不可能であり、海外のように「GPS等を用いた物理的な監視」や「強制的な治療」といった抜本的なシステム変更が急務であるということです。
かつて起きた逗子、小金井、そして2023年の博多駅前でのストーカー殺人事件など、日本の犯罪史では「警察に相談していたのに殺害された」という悲劇が繰り返されています。法改正のたびにSNSでのつきまといやGPSの無断使用などが規制対象に追加されてきましたが、常に「後手後手」の対応(ツギハギの法改正)に留まっています。
この記事では、過去の事件データや犯罪心理学の観点から「なぜ日本の制度では命を守れないのか」という構造的な欠陥をわかりやすく解説します。そして、スペインやイギリスなど「ストーカー被害を劇的に減らしている海外の最新事例」を紹介し、私たちが今後どのような仕組みを作っていくべきかを考えていきます。
日本の制度が破綻している3つの「構造的・深層的理由」
警察がパトロールを強化し、防犯ブザーを渡し、接近禁止命令を出しても、なぜ悲劇は起きるのでしょうか?そこには、いくら表面的なルールを変えても解決しない「3つの根本的な理由」が潜んでいます。
1. 「刑務所に入ってもいい」「死んでもいい」という異常な心理
通常の犯罪対策は、「捕まったら刑務所に入れられる(だから犯罪はやめよう)」という抑止力を前提としています。しかし、重度のストーカーにはこの大前提が全く通用しません。
加害者は被害者に対する異常な執着から、「思い通りにならないなら、相手を殺して自分も死ぬ(あるいは一生刑務所に入っても構わない)」という破滅的な心理状態(これを「拡大自殺」と呼びます)に陥っています。池袋の事件で加害者が犯行直後に自殺を図ったのもそのためです。
このような精神状態の加害者に対して、警察からの「これ以上近づいたら逮捕しますよ」という警告文は、ストッパーになるどころか「完全に拒絶された」という絶望感を煽り、犯行を早める引き金(トリガー)になってしまうことすらあるのです。
2. スマホやAirTagの悪用!「見えない監視」の恐怖(情報の非対称性)
今の日本の制度では、「加害者が近づいてきていないか」を監視する役割は、事実上被害者の目視(自己責任)に押し付けられています。
しかし現代のストーカーは、被害者の車にこっそりAirTag(スマートタグ)を仕込んだり、スマホにスパイウェア(監視アプリ)を忍び込ませたりして、デジタルの力で24時間居場所を把握しています(これを「TFA:テクノロジーを利用した暴力」と呼びます)。
つまり、加害者は被害者が「今、池袋のどこにいるか」をピンポイントで知っているのに、被害者は「加害者が世界のどこに潜んでいるか全くわからない」という圧倒的に不利な状況に置かれています。この「情報の差」が、ストーカーに奇襲のチャンスを与えてしまっているのです。
3. 警察が到着するまでの「数分間」が命取りになる
警察の仕組みは、基本的に「事件が起きてから駆けつける(事後対応)」モデルです。
ストーカーが刃物を持って突進してきたとして、被害者がそれに気づき、110番通報をし、警察が現場に到着するまでには、どれほど急いでも数分から十数分かかります。しかし、殺傷行為自体はほんの数十秒で終わってしまいます。
この「通報から警察到着までの空白時間」に被害者を物理的に守る盾が、今の日本には存在しないのです。
世界はここまで進んでいる!海外の最新ストーカー対策
「じゃあ、どうすればいいの?」と絶望することはありません。海外(ヨーロッパやオーストラリアなど)では、最新テクノロジーと法律を掛け合わせることで、ストーカーによる殺人を劇的に防ぐことに成功しています。
スペインの奇跡:「被害者死亡ゼロ」を実現した双方向GPSシステム
世界で最も成功しているストーカー対策のひとつが、スペインが2009年に導入した「COMETA(コメタ)」というシステムです。これは、単に加害者にGPSをつけるだけでなく、被害者の位置情報とも連動させる「双方向」の監視システムです。
- 加害者への装着: 裁判所の命令で、加害者の足首には絶対に外せない(切断すると即座に警報が鳴る)強固なGPS機器が装着されます。
- 被害者への貸与: 被害者には、専用のGPS端末(緊急通報ボタン付き)が貸与されます。
- 見えないバリア(ジオフェンシング): 2つの端末の距離を24時間監視し、被害者がどこに移動しても、半径500メートルなどの「安全圏(バリア)」を維持します。加害者がこのエリアに侵入すると、コントロールセンターで即座にアラームが鳴ります。
アラームが鳴ると、センターから加害者に「すぐに引き返せ」と警告が飛び、被害者には「安全な場所に逃げて」と指示がいきます。同時に、一番近くにいる警察官にGPS座標が送られ、平均5〜7分で加害者を拘束します。
このシステムの導入から15年以上経ちますが、この監視下において殺害された女性はなんと「ゼロ(0件)」という驚異的な記録を誇っています。被害者は恐怖で引っ越しを余儀なくされることなく、日常生活を取り戻すことができています。
イギリス:「過去の暴力歴を知る権利」と「強制治療」
イギリスでは、大きく2つの強力な制度が機能しています。
① クレアの法(過去を知る権利)
交際相手にDVやストーカーの前科がないか、当事者や家族が警察に照会できる制度です。また、警察側が「この人は危ない」と判断した場合、被害者に自発的に警告することもできます。「知ることで逃げる準備ができる」という非常に効果的な予防策です。
② ストーカー保護命令(SPO)による強制治療
日本の接近禁止命令と大きく違うのは、「精神科の受診や、アルコール・薬物依存の治療プログラムを強制的に受けさせる義務」を課すことができる点です。
ストーカー行為は性格の問題ではなく「心の病理(治療が必要な病気)」です。「近づくな」と命令するだけでなく、根っこにある執着を取り除く治療を国家権力で強制し、これに違反すればすぐに逮捕・刑務所行きとなります。
オーストラリア:デジタルストーキングの厳罰化
オーストラリアのニューサウスウェールズ州などでは、「デジタル上の監視(TFA)」を法律上のストーカー行為として明確に位置づけました。実際に待ち伏せをされていなくても、「スマホにスパイウェアを入れた」「無断でGPSトラッカーを仕掛けた」という行為単体で、強力な逮捕・処罰が可能になっています。
日本の未来を変えるために必要な「4つの提言」
こうした海外の成功事例を踏まえ、日本のストーカー対策を「被害者が逃げ隠れする社会」から「加害者が物理的に手を出せない社会」へと変えるための4つの提言をまとめました。
提言1:日本版COMETA(双方向GPS監視システム)の導入
最も急ぐべきは、スペインのような「GPS等を利用した双方向電子監視システム」の法制化です。
日本でこれを議論すると、必ず「加害者のプライバシー侵害だ」「人権問題だ」という反対意見が出ます。しかし、切迫した殺人のリスクがある状況において、「加害者の移動の自由」よりも「被害者の命」が優先されるのは当然のことです。もしこのシステムが池袋の事件で導入されていれば、加害者が商業施設に近づいた瞬間に警察が動き、被害者の命は確実に助かっていたはずです。
提言2:加害者への「治療」を法律で義務化する
現在、日本の警察も加害者にカウンセリングを勧めていますが、あくまで「本人の自由(任意)」です。これでは意味がありません。イギリスのように、ストーカー加害者に対して専門的な認知行動療法や精神医学的な治療を受けることを法律で「義務化」し、治療から逃げたら即座に逮捕する仕組みが必要です。病理を治療しなければ、刑務所から出てきた後にまたストーカー行為を繰り返すだけです。
提言3:警察の「デジタル捜査力」の抜本的強化
被害者が警察に相談に来た際、その場でスマホや車を徹底的に調査(デジタル・フォレンジック)し、隠されたスパイウェアやAirTagを発見・無力化する「サイバー・ストーカー専門チーム」を各都道府県に設置すべきです。そして、こうしたデジタル監視行為そのものを厳罰化する法整備が求められます。
提言4:日本版「クレアの法」の制定(危険情報の共有)
ストーカー事件は、交際中のDVや異常な束縛からエスカレートすることがほとんどです。被害を未然に防ぐため、イギリスに倣って「パートナーの過去の危険情報を警察に照会できる制度」を作り、全国の警察でデータベースを統合する必要があります。AIを使って危険度をスコア化し、警察がいち早く介入できる仕組みを作るべきです。
まとめ:悲劇を嘆く時代は終わった。システムで命を守る社会へ
2026年池袋の痛ましい事件をはじめとする数々のストーカー事件は、「防げなかった悲しい出来事」ではありません。「制度の欠陥によって防ぐ機会を逃した事件」です。
異常な心理状態に陥った加害者に、「接近禁止命令」という一枚の紙切れは何の防弾効果も持ちません。私たちはもう、「法律の威嚇」だけに頼る時代を終わらせるべきです。
スペインのシステムが証明しているように、テクノロジーと法律を適切に組み合わせれば、ストーカーによる殺人は「ゼロ」に抑え込むことが可能です。加害者のプライバシーに過度に配慮して被害者が恐怖に怯えながら暮らす社会から、物理的・技術的な介入によって「被害者の命が確実に守られる社会」への変革が、今すぐ求められています。
参考リンク
- ストーカー規制法が改正されました! – 警察庁
- 博多駅前ストーカー殺人事件 寺内進被告の懲役20年が確定 検察と弁護側双方が控訴せず
- 博多ストーカー殺人 求刑下回る懲役20年判決 福岡地裁“待ち伏せ”認めずも「反省の言葉は表面的」
- ストーカー加害者に対するカウンセリング・治療等制度運用要領の制定について
- Technology-Facilitated Abuse in Intimate Relationships: A Scoping Review – PMC
- Stalking, harassment, electronic monitoring and Domestic Abuse – and how to stay safe
- Abuse Using Technology: GPS Monitoring | WomensLaw.org
- GPS Monitoring in Domestic Violence: The Spanish Experience – Civic Research Institute
- Spain uses GPS trackers to protect women from domestic violence – The Guardian
- Use of Technological Devices and (Re)victimization in Gender-based Crimes in Spain – Dialnet
- Electronic Monitoring of Domestic Violence Cases—A Study of Two Bilateral Programs* – United States Courts
- Discover Cometa’s emg systems
- More protection for victims of domestic violence: ankle tags based on the Spanish model could be introduced nationwide | EURO SECURITY
- (PDF) GPS Tagging and Proximity Notification Systems for Domestic Violence Prevention: Protecting Women, Saving Lives – ResearchGate
- Clare’s Law
- Domestic Violence Disclosure Scheme ‘Clare’s Law’ – GOV.UK
- Domestic Violence Disclosure Scheme factsheet – GOV.UK
- Clare’s Law – Domestic Violence Disclosure Scheme (DVDS) – Sussex Police
- Research Brief Understanding Domestic Violence Disclosure Schemes (‘Clare’s Law’)
- Clare’s Law 10 years on: is it working for victims and survivors? – Essex Research Repository
- Stalking protection orders – The House of Commons Library
- Stalking Protection Orders: statutory guidance for the police (accessible) – GOV.UK
- Full article: No longer a civil matter? The design and use of protection orders for domestic violence in England and Wales – Taylor & Francis
- Modern-day ‘ASBOs’ highly discriminatory and fail to protect – JUSTICE
- Crime and Policing Bill (24th April 2025) – Parliament UK
- Crime and Policing Bill: reducing violence against women and girls (VAWG) factsheet
- Expert KC to lead urgent independent review of stalking laws – GOV.UK
- Tracking a partner with smart tech considered stalking under changes to NSW domestic violence laws | New South Wales | The Guardian
- Cybercrime Module 12 Key Issues: Cyberstalking and Cyberharassment – Unodc
- Leg restraints to protect against domestic violence – Konrad-Adenauer-Stiftung
