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【6月18日は何の日?】「考古学出発の日」の由来とモース博士による大森貝塚発見の歴史ドラマを徹底解説!

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はじめに

読者の皆様、こんにちは。私たちが毎日何気なく眺めているカレンダーには、一年を通じてさまざまな記念日が定められています。美味しい食べ物の日であったり、健康について考える日であったり、その種類は本当に多様です。その中で、6月18日が何の日かご存知でしょうか。実はこの日は、日本の歴史を探求する上で非常に重要な「考古学出発の日(日本)」という記念日に制定されています。歴史の教科書で一度は目にしたことがある「大森貝塚(おおもりかいづか)」という言葉を覚えている方も多いかもしれません。本記事では、この記念日がどのようにして生まれたのか、そして明治時代に起きたまるで映画のような奇跡の発見劇について、専門用語を極力使わずにどなたにでもわかりやすく解説していきます。遠い大昔の人々の暮らしに思いを馳せながら、ぜひ最後までお楽しみください。

👇 本記事でわかる3つの重要ポイント 👇

  • 【テーマ1】6月18日が「考古学出発の日」に選ばれた歴史的な理由
  • 【テーマ2】モース博士が列車の車窓から大森貝塚を発見した秘密
  • 【テーマ3】日本における近代考古学の幕開けと私たちが歴史を学ぶ意義

それでは、文明開化の足音が響く明治時代の日本へ、一緒に時間をさかのぼる旅に出発しましょう!この記事を読み終える頃には、普段歩いている地面の下に眠る歴史のロマンに、きっと胸がワクワクしてくるはずです。

6月18日 考古学出発の日(日本)

1877年(明治10年)のこの日、来日したアメリカの動物学者エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう列車の車窓から「大森貝塚」を発見しました。これが日本における近代考古学の出発点とされています。

明治時代の日本を走る列車と奇跡の発見劇

文明開化の音色が響く新しい時代の風景

ここからは、上記の基本的な情報をもとに、さらに詳しい歴史の裏側を紐解いていきましょう。舞台は1877年、つまり明治10年の日本です。当時の日本は、江戸時代のちょんまげや刀の時代から、西洋の文化を積極的に取り入れる「文明開化(ぶんめいかいか)」の真っ只中にありました。街にはレンガ造りの建物が建ち始め、人々の服装も着物から洋服へと少しずつ変化していた非常に活気のある時代です。

そんな新しい日本の象徴とも言えるのが「鉄道」でした。日本で初めて鉄道が開通したのは1872年(明治5年)のことで、新橋と横浜の間を蒸気機関車が力強く走り始めました。それまで歩いて何時間もかかっていた距離を、黒い煙を吹き上げながらあっという間に結ぶ蒸気機関車は、当時の人々にとって魔法のような乗り物だったに違いありません。エドワード・S・モース博士が乗っていたのも、まさにこの開通して間もない新橋と横浜を結ぶ列車だったのです。

エドワード・S・モース博士とはどのような人物だったのか?

この物語の主人公であるエドワード・S・モース博士は、アメリカからやってきた優秀な動物学者でした。では、なぜアメリカの動物学者がわざわざ遠い海を渡って日本にやってきたのでしょうか。実は、彼が日本に来た当初の目的は、遺跡を探すことではありませんでした。彼は海に住む「シャミセンガイ」という、少し変わった形をした腕足動物(わんそくどうぶつ)の研究をしており、その生き物が日本の海にたくさんいるという話を聞いて、研究のために来日したのです。

つまり、彼は考古学の専門家ではなく、海の生き物を専門とする学者でした。しかし、この「海の生き物、特に貝などの仲間に非常に詳しい」という彼の動物学者としての背景が、のちに日本の歴史研究においてとてつもなく大きな奇跡を呼び起こすことになります。もし彼が全く違う分野の学者であったら、あの大発見は生まれなかったかもしれません。歴史の不思議な巡り合わせを感じさせるエピソードです。

まるで映画のワンシーン!車窓からの大発見

走る列車の窓から見えた白く輝く地層

1877年の6月18日、モース博士は横浜の港から日本に上陸し、目的地である東京へ向かうために列車に乗りました。初めて訪れる日本の風景に胸を躍らせながら、彼は列車の窓から外の景色を食い入るように見つめていたことでしょう。当時は現在のように高いビルなどはなく、のどかな自然の風景が広がっていました。また、線路を敷くために、丘などの出っ張った土地が切り崩されており、線路の脇には土の壁(崖のような地層)がむき出しになっている場所がいくつもありました。

列車が大森(現在の東京都品川区から大田区のあたり)に差し掛かったその時、モース博士の鋭い目が、窓の外の土の壁の中に「ある異変」を捉えました。土の断面に、白い貝殻が分厚い層になってぎっしりと重なっているのが一瞬だけ見えたのです。普通の人であれば、「ただの貝殻が混ざった土だな」と見過ごしてしまうか、そもそも気にも留めなかったでしょう。しかし、貝の専門家であったモース博士は違いました。「海から離れたこんな高い場所の土の中に、あんなに大量の貝殻が帯のようにまとまって埋まっているのは絶対におかしい」と直感したのです。

貝塚(かいづか)という大昔のタイムカプセル

モース博士が列車の窓から一瞬で見抜いたその白い層の正体こそが、「貝塚」でした。貝塚とは、大昔の人々が食べた貝の殻や、動物の骨、魚の骨、そして壊れて使えなくなった土器(土で作った器)や石の道具などを捨てていた、いわば「大昔のゴミ捨て場」です。しかし、歴史を研究する学者にとって、これほど価値のある宝の山はありません。なぜなら、そこを掘って調べれば、「大昔の人が何を食べて、どんな道具を使い、どのような生活をしていたのか」というリアルな暮らしの様子がはっきりとわかるからです。

その後、東京に到着したモース博士は、あの窓から見えた場所がどうしても気になり、数ヶ月後に再びその場所を訪れて本格的な発掘調査を行いました。これが、歴史の教科書に必ず登場する「大森貝塚」の発見と発掘の始まりなのです。走っている列車の窓から遺跡を発見するという、まさに奇跡のようなお話です。

日本における「近代考古学の出発点」と呼ばれる理由

それまでの「宝探し」とは違う科学的な発掘調査

大森貝塚の発見が、単なる「古いものを見つけた」という出来事にとどまらず、「日本における近代考古学の出発点」と高く評価されているのには、明確で重要な理由があります。実は、大森貝塚が発掘される前の時代にも、土の中から古い壺や珍しい石が出てくることはありました。しかし、当時の人々はそれらを「珍しいお宝」として拾い集めたり、飾り物として楽しんだりするだけで、それを使って歴史を論理的に考えようとはしていませんでした。

それに対してモース博士は、まったく新しい「科学的な方法」を日本に持ち込みました。彼は地面を掘る際に、ただやみくもに掘り返すのではなく、「どのくらいの深さの土から、何が出てきたか」という地層の順番を非常に細かく記録しながら慎重に作業を進めました。さらに、見た目が綺麗な土器だけでなく、一見すると何の価値もなさそうな動物の骨の破片や、割れた土器のカケラなど、そこにあるもの全てを大切な手がかりとして集め、分類し、調査したのです。このように、土の中の証拠から過去の真実を組み立てていく学問的な姿勢を日本で初めて実践したため、この日が「近代考古学の出発点」と呼ばれるようになりました。

「縄文土器」という名前の名付け親もモース博士だった

さらに驚くべきことに、現在私たちが当たり前のように使っている「縄文(じょうもん)」という言葉も、モース博士の研究がきっかけで生まれました。大森貝塚を発掘している際、モース博士は土器の表面に、まるで縄を押し付けて転がしたような独特のギザギザとした模様がついていることに気がつきました。彼はこれを調査報告書の中で、英語で「Cord Marked Pottery(ひもの模様がついた土器)」と表現しました。

その後、この英語の表現を日本の学者たちが日本語に翻訳する際に、「縄の文様(模様)」という意味で「縄文土器」と名付けたのです。そして、この縄文土器が使われていた大昔の時代全体を「縄文時代」と呼ぶようになりました。つまり、日本の歴史の中で非常に重要な「縄文」というネーミングのルーツは、はるばるアメリカからやってきた動物学者のモース博士にあったということになります。これを知ると、歴史がより一層面白く感じられるのではないでしょうか。

モース博士が日本に残してくれた偉大な功績

東京大学での熱心な教育と教え子たちの活躍

モース博士の貢献は、大森貝塚の発見だけにとどまりません。彼はその優秀な知識と情熱を買われ、新しく作られたばかりの「東京大学」で、最初の動物学の先生として教壇に立つことになりました。彼の授業は非常に熱気に満ちており、黒板に両手を使って同時に別々の絵を描きながら説明するなど、学生たちを夢中にさせる魅力的なものだったと伝えられています。

彼は日本に滞在していた期間を通じて、日本の若者たちに科学的な考え方や、物事を注意深く観察する方法を徹底的に教え込みました。彼の教えを受けた多くの教え子たちは、のちに日本のさまざまな科学分野のリーダーとして大きく羽ばたいていきました。モース博士が蒔いた学問の種は、日本の近代科学を育てる豊かな森へと成長していったのです。

日本の文化を愛し、世界に伝えてくれた深い情熱

また、モース博士は日本の自然や昔の人々の歴史だけでなく、当時の日本人が持っていた日々の暮らしの文化や、職人たちの素晴らしい技術、そして人々の温かい人柄を心から愛していました。彼は日本中を旅しながら、日本の家屋の作り方や、日常の道具、おもちゃなどを熱心に記録し、たくさんの品物をアメリカに持ち帰って大切に保管しました。

彼が残してくれた膨大な記録やコレクションは、当時の日本の姿を現代に伝えるかけがえのない宝物となっています。彼はアメリカに帰国した後も、日本の素晴らしさを多くの人々に語り伝え、日本とアメリカの心の架け橋として一生を通じて活躍し続けました。一人の外国人の熱意が、日本の歴史と文化を世界に知らしめる大きな力となったのです。

現代の私たちと「考古学出発の日」のつながり

品川区と大田区に残る歴史的な記念碑

さて、モース博士が発見した「大森貝塚」ですが、現在その場所はどうなっているのでしょうか。実は現在、東京都の品川区と大田区の境目あたりには、二つの「大森貝塚の記念碑」が建てられています。当時、モース博士が発掘した正確な場所の記録が少し大まかであったことや、長い年月の間に町の境界線が変わったことなどが理由で、「品川区側」と「大田区側」のそれぞれに、歴史を讃える立派な記念の場所が作られているのです。

品川区の「大森貝塚遺跡庭園」には、モース博士の銅像や、貝塚の地層がどのようなものであったかを見ることができる展示があり、誰でも自由に散策して歴史に触れることができます。都会のビルや住宅が立ち並ぶ中に、大昔の息吹を感じられる空間が残されているというのは、非常に感慨深いものがあります。

地面の下に眠る物語に思いを馳せる素晴らしい記念日

6月18日の「考古学出発の日」は、ただ過去の出来事を振り返るだけの日ではありません。私たちが毎日当たり前のように歩いているアスファルトの道や、公園の土の下には、何千年、何万年という途方もなく長い時間を生きてきた先人たちの物語が、今この瞬間も静かに眠っているということを思い出させてくれる大切な日です。

文字による記録が残っていない時代の人々が、何を喜び、どんな困難を乗り越えて命をつないできたのか。それを無言の遺物たちから聞き出し、未来へと語り継ぐ学問が「考古学」です。列車の窓からの偶然の発見が、日本の長い歴史の扉を大きく開く鍵となったように、私たちの身の回りにも、まだ誰も気づいていない新しい発見の種が隠されているかもしれません。この記念日をきっかけに、ぜひご自身の住んでいる町の歴史や、近くの博物館などに足を運んでみてはいかがでしょうか。

まとめ

本記事では、6月18日の「考古学出発の日(日本)」について、その制定の背景や、エドワード・S・モース博士による大森貝塚の発見ドラマを詳しく解説してきました。1877年(明治10年)、アメリカからやってきた動物学者が、開通したばかりの鉄道の車窓から白く輝く貝殻の層を見つけ出したことが、日本の近代考古学の記念すべき第一歩となりました。

彼が持ち込んだ科学的な発掘の手法は、ただのお宝探しだった発掘を「過去の人々の生活を解き明かすための学問」へと大きく進化させました。また、私たちがよく知る「縄文土器」という名前の由来が、彼の記した「Cord Marked Pottery」という英語から来ていることも、歴史の面白さを象徴するエピソードです。

モース博士が残してくれた情熱と探求心は、今も日本の考古学研究に脈々と受け継がれています。次に6月18日がやってきたときは、ぜひ足元の地面の奥深くに眠る遠い昔の人々の暮らしや、列車の窓から外を熱心に見つめていたモース博士の姿を想像してみてください。きっと、普段の何気ない風景が、いつもより少しだけドラマチックで神秘的なものに見えてくることでしょう。

参考リスト

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