はじめに
「世界のホームラン王」と聞いて、誰もが思い浮かべるのが元読売ジャイアンツの王貞治さんではないでしょうか。毎年9月3日は、日本の野球史のみならず世界のスポーツ界にその名を刻んだ「ホームラン記念日」です。当時を知る方にとってはあの後楽園球場の熱狂が鮮やかによみがえり、若い世代にとっても伝説の記録として語り継がれています。
球場全体が固唾をのんで見守った昭和のあの日、一体どのようなドラマが繰り広げられたのでしょうか。なぜこれほどまでに多くの人々が熱狂し、半世紀近く経った今でも語り草になっているのでしょうか。
👇 本記事でわかる3つの重要ポイント 👇
- 【テーマ1】ハンク・アーロン超え!昭和52年9月3日に起きた756号世界新記録の全貌
- 【テーマ2】苦悩の末に誕生した「一本足打法」と荒川博コーチとの猛特訓の舞台裏
- 【テーマ3】対戦投手・鈴木康二朗投手の男気と「国民栄誉賞第1号」に輝いた歴史的功績
この記事をお読みいただければ、王選手が打ち立てた偉大な金字塔の裏側にある壮絶な努力、対戦相手との真剣勝負、そして日本中が一つになって歓喜した昭和の熱い空気感を余すところなく味わうことができます。それでは、歴史が動いた記念すべき日のドラマをじっくりと紐解いてまいりましょう。
9月3日が「ホームラン記念日」と呼ばれる由来
毎年9月3日は、日本全国で「ホームラン記念日」として制定されています。この記念日は、1977年(昭和52年)9月3日に読売ジャイアンツの王貞治選手が、当時のメジャーリーグ歴代最多記録であったハンク・アーロン氏の755本を塗り替える「通算756号ホームラン」の世界新記録を達成したことに由来しています。
試合の舞台となったのは、読売ジャイアンツの本拠地であった後楽園球場です。対戦相手はヤクルトスワローズでした。日本中の野球ファンはもちろんのこと、普段は野球をあまり見ない一般の国民までもがテレビ中継の前に釘付けとなり、その一瞬の到来をいまかいまかと待ち望んでいました。
この世界記録の達成は、単なる一選手の個人成績の更新という枠をはるかに超え、戦後日本の復興と成長を象徴するような特大の明るいニュースとして日本中を駆け巡りました。その偉業を永く後世に語り継ぐために定められたのが、この記念日なのです。
歓喜の後楽園球場!世界記録「通算756号」達成の劇的瞬間
歴史的な瞬間が訪れたのは、1977年9月3日のヤクルト戦、3回裏の第2打席でした。カウント1ボール1ストライクからの3球目、ヤクルトスワローズの鈴木康二朗投手が投じた内角高めのシンカー(シュート気味に沈む球)を、王選手は見逃しませんでした。
独特の「一本足打法」から繰り出された鋭いスイングとともに、快音を残した白球はライトスタンドへと高々と舞い上がりました。美しい放物線を描いた打球は、そのままライトスタンド中段へと吸い込まれ、ついに世界新記録となる通算756号ホームランが達成されたのです。
打球がスタンドに入った瞬間、後楽園球場は地鳴りのような歓声と拍手に包まれました。グラウンド上には祝福の紙吹雪が舞い散り、王選手は満面の笑みを浮かべながらダイヤモンドを一周しました。ホームベースを踏んだ瞬間、チームメイトや関係者だけでなく、スタンドを埋め尽くしたファン全員が立ち上がり、歴史の証人となった喜びに酔いしれました。
伝説のライバル「ハンク・アーロン」の記録を破るまでの道のり
それまでの世界記録保持者であったハンク・アーロン氏は、アメリカ大リーグのブレーブスなどで大活躍し、通算755本塁打という前人未到の記録を打ち立てた大打者でした。当時、メジャーリーグの記録は日本のプロ野球選手にとっては遠い雲の上の存在であり、それを追い抜くことなど夢のまた夢と考えられていました。
しかし、王選手は驚異的なペースでホームランを量産し続け、ついにその背中を捉えました。1977年8月31日の大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)戦で755号を放ち、アーロン氏の記録に並んでからは、日本中が「あと1本」の瞬間を固唾をのんで見守る異常な熱狂状態に入りました。
記録への重圧は計り知れないものでしたが、王選手はわずか数日後の9月3日、見事にプレッシャーを跳ね除けて新記録を樹立しました。この快挙に対して、アメリカのハンク・アーロン氏本人からも心からの祝福メッセージと記念のフラミンゴの置物が贈られるなど、国境を越えたスポーツマンシップの美しさも大きな話題となりました。
打撃の神髄「一本足打法」誕生の秘密と血のにじむ特訓
王貞治選手といえば、右足を高々と上げて絶妙なタイミングでボールを捉える「一本足打法(フラミンゴ打法)」があまりにも有名です。しかし、この独特の打法は最初から身についていたわけではありませんでした。
高校時代は投手として甲子園で優勝し、華々しく巨人軍に入団した王選手でしたが、プロ入り当初はプロの投手が投げる鋭い変化球や速球に対応できず、思うような打撃結果を残せませんでした。ファンからは厳しい野次を浴びせられ、三振の多さから悔しい思いを重ねる日々が続いたのです。
転機となったのは、打撃コーチに就任した荒川博氏との出会いでした。荒川コーチは王選手の体の開きを矯正し、球を極限まで手元に引きつけて捉えるために、一本足で立つ打法の習得を提案しました。ここから、畳が擦り切れるほどの猛特訓が始まったのです。
毎日の遠征先でも宿舎の部屋に畳を敷き詰め、日本刀を使って天井から吊るした糸を真剣白刃取りの要領で切り裂く練習を繰り返しました。素振りの音で部屋の空気が張り詰め、畳が削れてささくれ立つほどの過酷な鍛錬の末に、誰にも真似できない完璧な一本足打法が完成したのです。この血のにじむような努力があったからこそ、世界のホームラン王への道が開かれました。
逃げずに勝負したヤクルト・鈴木康二朗投手の男気
756号ホームランのドラマを語る上で欠かすことができないのが、記録の一発を打たれた対戦相手、ヤクルトスワローズの鈴木康二朗投手の存在です。
大記録がかかった打席では、投手に対して「歴史的敗者として名前が残ってしまうのではないか」という極度のプレッシャーがかかります。そのため、勝負を避けてフォアボール(四球)で歩かせてしまう投手も少なくありませんでした。事実、王選手に対する厳しいマークや敬遠気味の投球が続いていた時期でもありました。
しかし、鈴木投手は逃げることを良しとしませんでした。「プロ野球の投手として、天下の王貞治から逃げるわけにはいかない」と堂々と真っ向勝負を挑み、渾身の球を投げ込んだ結果が本塁打となったのです。記録達成後、鈴木投手の正々堂々とした態度は多くの野球ファンから称賛を受け、スポーツマンシップを体現した素晴らしいライバルとして、今なお語り継がれています。
日本初!「国民栄誉賞」の創設と第1号の受賞
王貞治選手が達成した世界新記録756号は、当時の日本社会全体に計り知れない希望と勇気を与えました。敗戦からの復興を遂げ、世界へと飛躍しようとしていた日本において、世界一の記録を日本人が打ち立てたという事実は、国民にとって誇りそのものでした。
この歴史的快挙を讃えるために、当時の福田赳夫内閣は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった者」を表彰するための新たな栄誉を創設することを決定しました。これこそが、現在まで続く「国民栄誉賞」です。
王選手はその栄ある「第1号」として表彰されました。現在では様々な分野の偉人たちに贈られている国民栄誉賞ですが、その始まりはまさに、1977年9月3日に放たれた王選手の美しいホームランにあったのです。
868本という永遠の金字塔と王貞治氏が残した功績
756号を達成した後も王選手の勢いは止まらず、現役を引退するまでに積み上げた本塁打数は実に「868本」に達しました。この通算868本塁打という記録は、半世紀近くが経過した現在においても世界最多記録として燦然と輝いており、今後も破られることは極めて困難であると言われる不滅の大記録です。
現役引退後も、王氏は読売ジャイアンツの監督、福岡ソフトバンクホークスの監督や球団会長としてプロ野球の発展に尽力し続けました。さらに2006年に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表チームの監督を務め、見事に初代世界チャンピオンへと導きました。
常に野球に対して真摯であり、ファンや周囲の人々への感謝と礼儀を忘れなかった王貞治氏の姿勢は、記録の凄さだけでなく人格者としても世界中から深く敬愛されています。
まとめ
毎年9月3日の「ホームラン記念日」は、1977年に王貞治選手が通算756号を放ち、世界の頂点に立った記念すべき日です。その偉業の裏には、荒川コーチと共に行った過酷な特訓と一本足打法の完成、そして正々堂々と勝負を挑んだ対戦相手の存在がありました。
この世界新記録がきっかけとなって「国民栄誉賞」が誕生したことからもわかるように、王選手が放った一筋の打球は、まさに昭和という時代を明るく照らした希望の光でした。
現代のプロ野球でも素晴らしい選手たちが数々の記録を作っていますが、9月3日にはぜひ、かつて日本中が息を呑み、一つになって喜んだあの歴史的なホームランに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

