「あの時、別の会社を選んでいたら」「あの人と別れていなければ」「もっと早く挑戦していれば」。ふとした瞬間に、そんな「選ばなかった人生」のことを考えてしまうことはありませんか?今の生活に大きな不満があるわけではなくても、もう一つの道を歩いている自分を想像すると、なんだか今の自分が色あせて見えてしまう。後悔は、誰もが一度は抱える、とても身近で、そしてやっかいな感情です。
👇 本記事でわかる3つの重要ポイント 👇
- 【テーマ1】「選ばなかった人生」が輝いて見える理由
- 【テーマ2】『ダーク・マター』と多世界解釈が教えてくれること
- 【テーマ3】後悔を手放し、今の自分を肯定する統計学的な視点
第1回では「観測するまで未来は確定しない」、第2回では「どちらでもある状態を受け入れる」という考え方をご紹介しました。第3回となる今回は、未来ではなく「過去」に目を向けます。量子力学の「多世界解釈」と、それを題材にしたSFスリラー『ダーク・マター』を補助線にして、後悔が生まれる心のメカニズムを解き明かし、「選ばなかった人生」と上手に決別するためのヒントをお届けします。今回も数式は一切使いませんので、安心して読み進めてください。
どうして私たちは「選ばなかった人生」を想像してしまうのでしょうか?
脳は「もしも」を考える名人
人間の脳には、「もしもあの時こうしていたら」と、実際には起きなかった出来事を想像する働きが備わっています。心理学ではこれを「反実仮想(はんじつかそう)」と呼びます。
この働き自体は、決して悪いものではありません。「あの時、傘を持っていけば濡れなかったのに」と考えるからこそ、次は天気予報をチェックするようになります。反実仮想は、失敗から学び、次の行動を改善するための大切な仕組みなのです。
ところが、この仕組みが人生の大きな選択に向けられると、話は少し変わってきます。進学、就職、結婚、引っ越し。やり直しのきかない選択について「もしも」を繰り返すと、学びにつながるどころか、今の自分を否定する材料ばかりが積み上がってしまうのです。
後悔には「2つの種類」がある
後悔に関する心理学の研究では、興味深い傾向が知られています。人は短い期間で見ると「やってしまったこと」を後悔しやすい一方で、長い年月が経つと「やらなかったこと」のほうを強く後悔しやすい、というものです。
「やってしまったこと」は結果がはっきりしているので、反省して区切りをつけやすいものです。しかし「やらなかったこと」は、結果がわからないまま終わっています。だからこそ想像はいくらでも膨らみ、「きっと素晴らしい人生が待っていたはずだ」と、どこまでも美しく描けてしまうのです。
『ダーク・マター』が描く「選ばなかった人生」
もう一人の自分が生きる世界
ここで、一つのSF作品をご紹介しましょう。アメリカの作家ブレイク・クラウチによる小説『ダーク・マター』です。2024年にはApple TV+でドラマ化もされ、話題になりました。
※ここからは物語の序盤の設定に触れます。結末には触れませんが、まっさらな状態で楽しみたい方はご注意ください。
主人公のジェイソンは、シカゴの大学で物理を教える平凡な教授です。若い頃は将来を嘱望された研究者でしたが、恋人ダニエラとの間に子どもができたことをきっかけに、研究者としての野心よりも家族との生活を選びました。妻と息子と過ごす穏やかな毎日。けれど心のどこかには、「研究を続けていたら、自分は今ごろどうなっていただろう」という思いがくすぶっています。
そんなある夜、ジェイソンは何者かに襲われ、目を覚ますと見知らぬ世界にいました。そこは、彼が「家族ではなく研究を選んだ」並行世界だったのです。その世界のジェイソンは科学者として大成功を収め、並行世界を行き来する装置まで完成させていました。
「選ばなかった道」を歩んだ自分も、後悔していた
この物語のいちばん興味深い点は、研究を選んで成功をつかんだもう一人のジェイソンもまた、満たされていなかったということです。彼は名声を手に入れた一方で、「家族を選んだ人生」を手放したことをずっと悔やんでいました。
つまり、どちらのジェイソンも「選ばなかった人生」のほうを輝かしく思い描いていたのです。家族を選んだジェイソンは「成功」に憧れ、成功を選んだジェイソンは「家族」に憧れる。隣の芝生は、どちら側から見ても青く見えていたわけです。
この構図は、私たちの後悔の正体をとてもよく表しています。後悔の原因は、選んだ道が間違っていたことではなく、「選ばなかった道を、いいところだけ切り取って想像してしまうこと」にあるのかもしれません。
量子力学の「多世界解釈」という考え方
すべての可能性が「実際に」存在する世界
『ダーク・マター』の背景にあるのが、量子力学の「多世界解釈」というアイデアです。
第1回でご紹介した「シュレーディンガーの猫」を思い出してください。箱を開けるまで、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なり合っていました。では、箱を開けた瞬間、選ばれなかったほうの可能性はどこへ消えてしまうのでしょうか?
1957年、アメリカの物理学者ヒュー・エヴェレットは、大胆な考え方を提案しました。「選ばれなかった可能性は消えるのではなく、世界そのものが枝分かれして、両方の結果がそれぞれ別の世界で実現している」というものです。猫が生きている世界と、猫が死んでいる世界。その両方が実在し、私たちはたまたまそのうちの一つを経験している、と考えるのです。これが「多世界解釈」です。
※多世界解釈は、量子力学の不思議な現象を説明するための「解釈」の一つであり、並行世界が実際に存在することが証明されているわけではありません。また、今回の話も、物理学を心の持ち方に生かすための「たとえ(メタファー)」としてお読みください。
もう一人のあなたは、もう一つの道を生きている
この多世界解釈の視点を借りると、後悔に対する見方が少し変わってきます。
もし世界が無数に枝分かれしているのだとしたら、「あの時、別の会社を選んだあなた」も、どこかの世界でその人生をちゃんと生きていることになります。選ばなかった人生は「失われた」のではなく、別の誰かが――別のあなたが――引き受けてくれている。そう考えると、少しだけ肩の荷が下りませんか?
そして、あなたが引き受けているのは、今いるこの世界の人生です。無数の可能性の中から、この人生を担当しているのは、ほかでもないあなたなのです。
「無数の可能性」から今の自分を肯定する統計学的な視点
「選ばなかった道」は一つではない
ここからは、少しだけ統計学的な考え方を取り入れてみましょう。といっても、難しい計算は一切ありません。
私たちが「あの時、別の道を選んでいたら」と想像するとき、頭に浮かぶのはたいてい「うまくいった場合の自分」ひとりだけです。しかし、多世界解釈のように考えれば、「別の道を選んだ自分」は一人ではありません。大成功した自分もいれば、そこそこの自分もいる。思いがけない苦労を背負った自分や、今よりつらい状況にいる自分だっているはずです。
統計学には、たくさんの結果をならした「平均値」や、結果のばらつきを示す「分布」という考え方があります。選ばなかった道にも、良い結果から悪い結果まで、幅広い分布があったはずなのです。それなのに私たちは、その分布のいちばん良い端だけを取り出して、今の現実と比べてしまいます。これでは、今の自分が負けたように感じるのも無理はありません。
「ベストケース」と「今の現実」を比べるのはフェアではない
たとえるなら、それはくじ引きで「3等」が当たったのに、「もう一つのくじを引いていれば1等だったかもしれない」と悔やむようなものです。もう一つのくじにも、1等だけでなく、ハズレがたくさん入っていたはずです。
公平に比べるなら、「選ばなかった道の平均的な自分」と「今の自分」を比べるべきでしょう。そうしてみると、今の自分は意外と悪くない位置にいることに気づくかもしれません。少なくとも、「今の人生は失敗だった」と言い切れるほどの根拠は、どこにもないのです。
あの時のあなたは、その時の最善を選んでいた
もう一つ、後悔を強めてしまう心のクセがあります。それが「後知恵バイアス」です。結果がわかった後になってから、「最初からこうなることはわかっていたはずだ」と感じてしまう傾向のことです。
しかし、選択をしたその瞬間のあなたには、今のあなたが知っている情報はありませんでした。限られた情報と、その時の状況、その時の気持ちの中で、あなたは精いっぱい考えて選んだはずです。「今ならわかること」で過去の自分を裁くのは、答えを見ながら昔のテストを採点し直すようなもの。あの時のあなたは、あの時なりの最善を選んでいたのです。
「選ばなかった人生」と決別するための具体的な3つのステップ
それでは、後悔と上手に付き合い、今の自分を肯定するための具体的なステップを3つご紹介します。
ステップ1:選ばなかった道の「いろいろな自分」を想像する
後悔がわき上がってきたら、選ばなかった道の「成功した自分」だけでなく、「普通の自分」や「苦労している自分」も意識的に想像してみましょう。「別の会社に入っていたら、もっと活躍できたかも。でも、人間関係で悩んでいたかもしれないし、今の大切な友人とは出会えなかったかもしれない」。こうして可能性の分布全体を思い浮かべることで、美化された一人の幻と比べて落ち込むことが少なくなります。
ステップ2:「今の人生でしか得られなかったもの」を書き出す
次に、今の道を選んだからこそ出会えた人、経験できたこと、身についた力を書き出してみましょう。どんなに小さなことでもかまいません。『ダーク・マター』のジェイソンにとって、家族との日々がかけがえのないものだったように、あなたの人生にも「この世界のあなた」にしか手に入らなかったものが必ずあります。それは、ほかの世界のあなたがどれだけ成功しても、決して持っていないものです。
ステップ3:後悔を「次の選択」のための情報に変える
最後に、後悔を「過去を責める材料」から「未来に生かす情報」へと変えましょう。「あの時、挑戦しなかったことを後悔している」と気づいたなら、それは「自分は挑戦することを大切にしたい人間なんだ」という大事な発見です。過去の選択はやり直せませんが、これからの選択には生かすことができます。後悔は、あなたが本当に大切にしたいものを教えてくれる道しるべでもあるのです。
まとめ
今回は、量子力学の「多世界解釈」と、SF小説『ダーク・マター』を手がかりに、「選ばなかった人生」への後悔と向き合う方法を考えてきました。後悔が苦しいのは、選ばなかった道を、いちばん良い結果だけ切り取って想像してしまうからです。けれど、選ばなかった道にも、良いことと悪いことが同じように広がっていたはずです。
無数に枝分かれした世界の中で、この人生を生きているのは、今ここにいるあなただけです。そして、あの時のあなたは、その時できる最善の選択をしてきました。「選ばなかった人生」は、どこかの世界のもう一人の自分に任せて、あなたは胸を張って、この世界の自分の物語を歩んでいきましょう。
次回の第4回は、【量子もつれの人間関係】遠く離れていても影響し合う。共感とシンクロニシティの科学をお届けします。離れた場所にある粒子同士が不思議なつながりを見せる「量子もつれ」をヒントに、人と人との深い共感や、心地よい心の距離の取り方について考えていきます。どうぞお楽しみに。

