はじめに
「あの時の失敗さえなければ」「あんな経験はしたくなかった」。誰の心の中にも、思い出すたびに胸が痛む過去の出来事が、一つや二つはあるのではないでしょうか。過去は変えられない。だからこそ、つらい記憶は一生ついて回るものだと、あきらめてしまっている人も多いかもしれません。
👇 本記事でわかる3つの重要ポイント 👇
- 【テーマ1】未来の観測が過去を変えたように見える「遅延選択実験」とは
- 【テーマ2】記憶は「思い出すたびに作り直される」という認知心理学の知見
- 【テーマ3】過去の出来事の「意味」を書き換えるための具体的な方法
第7回では、量子ゼノン効果をヒントに、「気にしすぎる」ことが成長を止めてしまう理由と、上手に見守るコツを考えました。第8回となる今回は、時間の向きを逆にして「過去」に目を向けます。未来の観測が、まるで過去の結果を変えているかのように見える不思議な実験「遅延選択実験」をヒントに、つらい過去や失敗体験の「意味」を、今の自分の解釈によって書き換えていく方法をお届けします。今回も数式は一切使いませんので、ゆったりとした気持ちで読み進めてください。
どうして私たちは過去に縛られてしまうのでしょうか?
脳は「つらい記憶」を忘れにくい
私たちの脳は、うれしい出来事よりも、つらい出来事や危険だった出来事のほうを強く記憶する傾向があります。過去の失敗や痛みをしっかり覚えておけば、同じ危険を繰り返さずに済むからです。これは、生き延びるための大切な仕組みです。
しかし、その仕組みが強く働きすぎると、もう終わったはずの出来事が何度も心によみがえり、そのたびに当時と同じ痛みを感じてしまいます。過去の失敗が「自分はダメな人間だ」という思い込みにつながり、新しい挑戦を妨げてしまうこともあるのです。
「過去は変えられない」は半分だけ正しい
たしかに、起きてしまった出来事そのものを、なかったことにはできません。試験に落ちた、失恋した、仕事で大きなミスをした。そうした「事実」は変えられません。
しかし、その出来事が自分の人生にとって「どんな意味を持つのか」は、本当に最初から決まっているのでしょうか?この問いに、不思議なヒントを与えてくれるのが、量子力学の「遅延選択実験」です。
未来が過去を決める?「遅延選択実験」の不思議
まずは「二重スリット実験」から
遅延選択実験を理解するために、まずは量子力学で最も有名な実験の一つ「二重スリット実験」をご紹介しましょう。
2本の細い隙間(スリット)が開いた板に向かって、光の粒(光子)を一つずつ飛ばし、その先にあるスクリーンに当たった跡を記録します。すると不思議なことに、光子がどちらのスリットを通ったかを調べずにいると、スクリーンには、波が重なり合ったときにできる縞模様(干渉縞)が現れます。第2回でお話しした「光は波でもあり粒でもある」性質の、まさに波としての姿です。
ところが、光子がどちらのスリットを通ったかを観測すると、縞模様は消え、粒としての跡だけが残ります。つまり、「観測するかどうか」によって、光子は波のようにも粒のようにも振る舞うのです。
「後から決めた観測」が結果に影響する?
ここで、アメリカの物理学者ジョン・ホイーラーは、1978年ごろ、さらに大胆な思考実験を提案しました。「光子がスリットを通り過ぎた『後』で、どちらを通ったかを観測するかどうかを決めたら、どうなるだろうか?」というものです。
常識で考えれば、光子はスリットを通る時点で、すでに「波として両方を通った」か「粒としてどちらか一方を通った」かが決まっているはずです。後から何を選んでも、もう手遅れのはずですよね。
ところが、その後、実際に実験で確かめてみると、結果は「後から選んだ観測の方法」にぴったり合うものになりました。後から経路を観測することを選べば粒のような結果に、観測しないことを選べば波のような結果になったのです。まるで、未来の選択が、過去の光子の振る舞いをさかのぼって決めたかのように見えるため、この実験は大きな驚きを呼びました。
本当に「過去」が書き換わったのか?
ここで、大切な注意点があります。この実験は「未来から過去へメッセージを送れる」ことや、「起きた出来事そのものを書き換えられる」ことを示しているわけではありません。第4回の『三体』のコラムでもお話ししたように、そうしたことは現在の物理学では起こり得ないと考えられています。
多くの物理学者の考え方をやさしく言い換えると、「観測が終わるまでは、光子がどんな道筋をたどったのかという『物語』そのものが、まだ確定していなかった」ということです。ホイーラー自身も、観測されるまでは、現象はまだ現象として完成していない、という趣旨の考えを述べています。
※ここでの量子力学の話は、心の持ち方を考えるための「たとえ(メタファー)」としてご紹介しています。物理現象がそのまま人間の記憶や人生に当てはまるという意味ではありませんので、思考のヒントとして気軽に受け取ってください。
記憶は「思い出すたびに作り直される」
記憶はビデオ録画ではない
遅延選択実験では、「観測するまで過去の物語は確定しない」のでした。実は、私たちの記憶にも、これとよく似た性質があることが、認知心理学の研究から明らかになっています。
私たちは、記憶をビデオのように「録画されたものを再生している」と考えがちです。しかし実際には、記憶は思い出すたびに、断片的な情報をもとに頭の中で組み立て直されています。そのため、同じ出来事でも、思い出すときの気分や状況、その後に得た知識によって、受け止め方や細部が少しずつ変わっていくのです。
思い出すたびに「上書き保存」されている
さらに、脳科学の分野では、一度定着した記憶も、思い出したときに一時的に不安定な状態になり、その後あらためて保存し直されるという仕組みが研究されています。これは「記憶の再固定化」と呼ばれています。
これは裏を返せば、つらい記憶を思い出すとき、そのときの自分の受け止め方や心の状態が、記憶と一緒に「上書き保存」される可能性があるということです。いつも自分を責める気持ちで思い出していれば、記憶はますます苦しいものとして保存されます。反対に、少し落ち着いた、やさしい視点で思い出すことができれば、その記憶の「手ざわり」は少しずつ和らいでいくかもしれません。
ただし、これは「事実を都合よくねじ曲げる」ことではありません。起きた事実はそのままに、その事実が持つ「意味」や「感じ方」を見直していく、ということです。
「今の解釈」が過去の意味を変える心理療法的アプローチ
リフレーミング:同じ絵も額縁で印象が変わる
心理学には、出来事を見る「枠組み(フレーム)」を変えることで、その意味を捉え直す「リフレーミング」という方法があります。同じ絵でも、額縁を変えるだけでがらりと印象が変わるように、同じ出来事でも、見る角度を変えると、まったく違った意味が見えてくるのです。
たとえば、「希望の会社に落ちた」という出来事。当時は「人生最大の挫折」だったかもしれません。しかし、今振り返ってみると、「そのおかげで今の仕事や仲間に出会えた」と感じる人もいるでしょう。中国の古いことわざ「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」が教えてくれるように、ある出来事が幸運なのか不運なのかは、その後の人生の流れの中で、何度でも意味を変えていくものなのです。
ナラティブ・セラピー:人生の物語を「書き直す」
また、心理療法の一つに「ナラティブ・セラピー」と呼ばれる方法があります。ナラティブとは「物語」という意味です。この方法では、人は自分の人生を一つの物語として理解していると考え、その物語を、カウンセラーと一緒に、より生きやすいものへと書き直していきます。
たとえば、「私は失敗ばかりのダメな人間だ」という物語にとらわれている人がいたとします。しかし、人生を丁寧に振り返ると、その物語には当てはまらない出来事、つまり「うまく乗り越えた経験」や「誰かを助けた経験」が必ず見つかります。そうした出来事に光を当てることで、「何度つまずいても、そのたびに立ち上がってきた私」という、新しい物語を紡ぎ直していくのです。遅延選択実験で、後からの観測によって光子の「物語」が決まったように、今の自分の視点が、過去の出来事に新しい物語を与えていくのです。
つらい経験から「成長」が生まれることもある
さらに心理学では、大きなつらい経験をした人が、その経験と向き合う過程で、人への思いやりが深まったり、人生で本当に大切なものに気づいたりと、心の成長を遂げることがあると知られています。これは「心的外傷後成長」と呼ばれています。
ただし、これは「つらい経験には必ず意味がある」「前向きに捉えなければならない」ということではありません。無理にポジティブな意味を見つけようとすると、かえって苦しくなってしまうこともあります。意味の書き換えは、自分のペースで、少しずつ進めていけばいいのです。とくに、思い出すだけで日常生活に支障が出るほどつらい記憶や、深い心の傷がある場合は、一人で抱え込まず、カウンセラーや医療機関などの専門家に相談することを大切にしてください。
過去の意味を書き換えるための具体的な3つのステップ
それでは、過去の出来事が持つ意味を、少しずつやさしく書き換えていくための具体的なステップを3つご紹介します。比較的軽い失敗体験や、少し引っかかっている思い出から試してみるのがおすすめです。
ステップ1:「事実」と「解釈」を分けて書き出す
まずは、気になっている過去の出来事を、ノートに書き出してみましょう。このとき、「事実」と「解釈」を分けて書くのがポイントです。たとえば、「会議で発表がうまくいかなかった」は事実ですが、「みんなに無能だと思われた」は解釈です。分けてみると、自分を苦しめていたのは事実そのものではなく、自分がつけた解釈のほうだったと気づくことがよくあります。事実は変えられなくても、解釈は書き換えることができます。
ステップ2:「その経験があったから得たもの」を探してみる
次に、その出来事があったからこそ得られたものを、ゆっくり探してみましょう。身についた力、出会えた人、気づけたこと、避けられた失敗。どんなに小さなことでもかまいません。第3回でお話しした「今の人生でしか得られなかったもの」を書き出すステップとも通じる方法です。見つからなければ、無理に探す必要はありません。「今はまだ見つからない」というのも、立派な一つの答えです。
ステップ3:今の自分から、過去の自分へ手紙を書く
最後に、今の自分から、当時の自分に向けて短い手紙を書いてみましょう。「あの時はつらかったね」「よく頑張ったね」「あの経験があったから、今の私がいるよ」。当時の自分には見えなかった景色が、今の自分には見えています。今の自分という「観測者」の視点から、過去の自分にやさしい言葉をかけること。それが、過去の出来事に新しい意味を与え、記憶を少しずつやさしい形で上書き保存していく助けになります。
まとめ
今回は、量子力学の「遅延選択実験」をヒントに、今の自分の解釈によって、過去の出来事が持つ意味を書き換えていく方法を考えてきました。遅延選択実験では、後からの観測によって、光子がたどった道筋という「物語」が確定しました。私たちの記憶もまた、思い出すたびに作り直され、今の自分の視点によって、その意味を変えていくことができます。
起きた事実は変えられません。けれど、その事実があなたの人生にとってどんな意味を持つのかは、まだ完全には確定していません。これからのあなたの生き方と、今のあなたのまなざしが、過去の出来事にも新しい意味を与えていくのです。あせらず、自分のペースで、過去の自分と少しずつ仲直りしていきましょう。
次回の第9回は、【確率の波を乗りこなす】決定論的な運命論を捨て、無数の選択肢から「最適解」を引き寄せるをお届けします。未来はあらかじめ決まっているのではなく、確率の波として広がっている。これまでの連載を振り返りながら、日々の小さな行動の積み重ねが、望む未来が現実になる確率をどのように引き上げていくのかを考えていきます。どうぞお楽しみに。

