はじめに
あんなに欲しかった新しいスマホも、買って数か月たつと「ただのスマホ」になっていませんか。昇給や引っ越しのうれしさも、気づけば当たり前の毎日に溶けていきます。この現象には、心理学で「快楽順応(ヘドニック・トレッドミル)」という名前がついています。
👇 本記事でわかる3つの重要ポイント 👇
- 【テーマ1】快楽順応が起こる仕組みと有名な研究
- 【テーマ2】快楽順応と新奇性効果の関係
- 【テーマ3】喜びを長持ちさせる具体的なコツ
喜びが薄れるのは、あなたの性格のせいではなく、人間の心に備わった性質です。仕組みを知れば、手に入れた幸せを長く味わう工夫ができます。さっそく見ていきましょう。
快楽順応(ヘドニック・トレッドミル)とは?基本の意味
快楽順応とは、良い出来事や悪い出来事による気持ちの揺れが、時間とともに小さくなっていく心の働きのことです。うれしい変化にも、つらい変化にも、人はやがて慣れていきます。
行動経済学者のシェーン・フレデリックとジョージ・ローウェンスタインは、1999年の論文で快楽順応を「好ましい状況と好ましくない状況の、感情的な強さが弱まること」と定義しました。ポイントは、喜びだけでなく悲しみや苦しみにも慣れるという点です。
ランニングマシンにたとえられる理由
「トレッドミル」とは、ジムにあるランニングマシンのことです。マシンの上では、どれだけ走っても体は同じ場所にとどまります。
幸せも同じで、新しいモノや地位を手に入れても、しばらくすると気分は元の水準に戻ってしまいます。すると人はまた次の何かを求めて走り出します。この「走っても前に進まない」様子から、ヘドニック(快楽の)・トレッドミルと呼ばれるようになりました。
名づけ親はブリックマンとキャンベル
この言葉は、心理学者のフィリップ・ブリックマンとドナルド・キャンベルが1971年の論文「快楽の相対主義と良い社会の計画」で使ったのが始まりとされています。人は外の出来事が変わっても、わりと安定した幸せの水準を保ちやすい、という考え方です。
背景には、心理学者ハリー・ヘルソンの「順応水準理論」があります。これは、人は刺激そのものではなく、それまでに慣れた刺激との比較で物事を感じる、という理論です。冷たい水に手を入れた直後はぬるま湯が熱く感じるのと同じしくみが、幸せにも働くと考えたわけです。
宝くじ当選者の研究でわかったこと
快楽順応を有名にしたのは、1978年に発表された「宝くじ当選者と事故の被害者」の研究です。大きな幸運をつかんだ人も、思ったほど幸せになっていなかったという結果が、多くの人を驚かせました。
1978年の有名な調査
ブリックマン、ダン・コーツ、ロニー・ジャノフ=ブルマンの3人は、アメリカのイリノイ州の宝くじで5万ドルから100万ドルを当てた人たちに話を聞きました。比べたのは、事故で体にまひが残った人たちと、どちらにも当てはまらない人たちです。
| グループ | 人数 | 幸福度の平均(5点満点) |
|---|---|---|
| 宝くじ当選者 | 22人 | 4.00 |
| 比較のための一般の人 | 22人 | 3.82 |
| 事故でまひが残った人 | 29人 | 2.96 |
科学ニュースサイトのScienceAlertによると、当選者と一般の人の差は、統計的に意味のある差ではありませんでした。一方で、事故の被害者の幸福度も、尺度の真ん中(2.5)を上回っていました。
日常の小さな楽しみが減った
この研究で興味深いのは、当選者が「日々のささいな楽しみ」をあまり感じなくなっていた点です。朝ごはんを食べる、友だちと話す、ほめられるといった出来事から得る喜びが、一般の人より小さかったと報告されています。
研究者たちは、大きな喜びを経験すると、それが新しい「ものさし」になり、ふだんの喜びが色あせて見えるのではないかと考えました。大きな幸運が、小さな幸せを感じる力を下げてしまう可能性があるということです。
この研究の注意点
ただし、この調査は人数が少なく、ある一時点の聞き取りにもとづくものです。その後の研究では、宝くじ当選者の満足度が長く高めに保たれたという報告や、体の障害が幸福度を下げ続けるという報告もあり、結論は一つではありません。「人は何にでもすぐ慣れる」と言い切るのではなく、「思っている以上に慣れやすい」と受け止めるのが適切です。
喜びが薄れていく3つの仕組み
快楽順応は、一つの単純な現象ではありません。主に「基準が上がる」「感じにくくなる」「期待が上がる」という3つの働きが重なって起こると考えられています。
基準が上がる(順応水準の移動)
フレデリックとローウェンスタインは、快楽順応のしくみを「順応水準の移動」「脱感作」「鋭敏化」の3つに分けて整理しました。このうち順応水準の移動とは、比べる基準そのものが新しい状態に合わせて動いてしまうことです。
たとえば広い家に引っ越すと、最初は広さに感動します。しかし数か月もすると、その広さが「ふつう」の基準になり、感動は生まれにくくなります。
感じにくくなる(脱感作)
脱感作(だつかんさ)とは、同じ刺激をくり返し受けるうちに、反応そのものが弱まることです。大好きな料理も毎日食べれば、最初の一口ほどの感動はなくなります。
なお3つ目の「鋭敏化」は逆向きの働きで、くり返すほど反応が強くなる場合を指します。騒音が気になり始めると、どんどん耳につくようになるのはその一例です。つまり、何にでも慣れるとは限らない点も覚えておきましょう。
期待が上がる(HAPモデル)
心理学者のケノン・シェルドンとソニア・リュボミアスキーは、良い変化による幸せが目減りする道すじを「快楽順応予防モデル(HAPモデル)」として示しました。2012年の論文によると、道すじは大きく2つあります。
- 良い変化から生まれるうれしい出来事や前向きな気持ちが、だんだん少なくなっていく
- それが当たり前になり、「もっと良くなるはず」と求める水準が上がっていく
新車を買えば、最初はドライブのたびに気分が上がります。しかし、乗るたびにうれしい出来事が起こるわけではなくなり、さらに「次はもっと良い車を」と期待が高まっていきます。こうして喜びが二重に削られていくのです。
新奇性効果との関係:対になる2つの心の動き
新奇性効果とは、目新しいものに触れたとき、注意や気分、やる気が一時的に高まる心の働きのことです。快楽順応とは、いわばコインの表と裏の関係にあります。
新しいモノを手に入れた直後のワクワク感は、新奇性効果によるものです。そして、その新しさが薄れていく過程が快楽順応です。2つはセットで起こるため、「買った直後の喜びの大きさ」だけで、そのモノの本当の価値を判断するのは危険だとわかります。
| 比べる点 | 新奇性効果 | 快楽順応 |
|---|---|---|
| 起こるタイミング | 新しいものに出会った直後 | しばらく時間がたってから |
| 気持ちの動き | 喜びや興味が高まる | 喜びや興味が元の水準へ戻る |
| 身近な例 | 新しいスマホを毎日さわりたくなる | 数か月後には気にならなくなる |
| 上手な付き合い方 | 勢いのあるうちに新しい習慣を始める | 変化や感謝で喜びを保つ |
この関係を知っておくと、行動を変えるときにも役立ちます。たとえば新しい運動用具を買った直後は、新奇性効果でやる気が高い時期です。その勢いのあるうちに習慣を作っておけば、慣れが来ても続けやすくなります。
「幸せは必ず元に戻る」は本当か?最新の見直し
結論から言うと、「どんな出来事のあとも、幸せは同じ水準に戻る」という考え方は、その後の研究で修正されています。快楽順応は確かに起こりますが、完全でも全員一律でもありません。
心理学者のエド・ディーナーらは、2006年に学術誌『アメリカン・サイコロジスト』で、従来の理論には5つの修正が必要だと発表しました。
- 人が戻る幸せの基準点(設定値)は、気持ちが「ゼロ」の中立点ではない
- 基準点は人によって違い、生まれつきの気質にも左右される
- うれしい気持ち、いやな気持ち、人生への満足感は、それぞれ別々に動くことがある
- 条件によっては、基準点そのものが変わることがある
- 出来事への慣れ方には個人差がある
特に大切なのは4つ目です。ディーナーらは、これらの修正は人の不幸を減らし、幸せを増やそうとする心理学者や政策担当者に希望を与えるものだと述べています。また、失業や障害など強いマイナスの出来事のあと、多くの人が元の水準まで戻りきらないことも報告されています。幸せは努力しても変えられない、というわけではないのです。
喜びを長持ちさせる5つのコツ
快楽順応を完全に止めることはできませんが、ゆっくりにすることはできると考えられています。ここでは研究にもとづく5つの工夫を紹介します。
1. 変化をつける
シェルドンとリュボミアスキーの研究では、喜びを長持ちさせるカギとして「変化」と「感謝」が挙げられています。同じ楽しみ方をくり返すと慣れやすいため、使い方や場所、組み合わせを少しずつ変えるのが効果的です。
新しい服なら、毎回違う組み合わせで着てみる。お気に入りの散歩道なら、時間帯や季節を変えて歩いてみる。こうした小さな変化が、新しさを補ってくれます。
2. 感謝し、じっくり味わう
手に入れたものを「当たり前」にしないためには、ときどき意識して目を向けることが大切です。ポジティブ心理学の解説サイトPositivePsychology.comでは、感謝の気持ちを育てることが快楽順応へのもっとも強力な対抗策の一つだと紹介されています。
寝る前に「今日よかったこと」を3つ思い出す、使っている道具を手入れしながら買った日のことを振り返る、といった方法が手軽です。
3. あえて中断する
意外かもしれませんが、楽しいことは途中で区切ったほうが楽しく感じられる場合があります。リーフ・ネルソンらの2009年の研究では、テレビ番組をCMで中断して見た人のほうが、中断なしで見た人より番組を楽しめたという結果が出ました。
CMの質にかかわらず効果があったことから、研究者たちは「中断が慣れをリセットする」と説明しています。好きなお菓子を一気に食べず、間をあけて少しずつ味わうのも同じ考え方です。
4. モノより体験にお金を使う
心理学者のリーフ・ヴァン・ボーヴェンとトーマス・ギロビッチは、2003年の研究で、旅行や食事などの「体験」に使ったお金のほうが、物を買ったときより幸せを感じやすいと報告しました。コロラド大学の発表によると、1万2千人以上のアメリカ人への調査でも、多くの人が体験の購入を選んでいます。
理由として、体験は思い出として良い方向に解釈し直されやすいこと、自分らしさの一部になりやすいこと、人とのつながりを生みやすいことが挙げられています。
5. 小さな喜びをくり返す
行動経済学の解説サイトBehavioralEconomics.comによると、運動や宗教的な習慣のような小さな良い体験のくり返しは、大きな出来事よりも長く幸福感に影響する可能性が指摘されています。
一度の大きなごほうびより、毎週の楽しみを複数用意するほうが、トレッドミルの上でも気分よく歩き続けられます。
よくある質問
快楽順応は悪いことなのですか?
悪いことばかりではありません。快楽順応があるからこそ、人はつらい出来事のあとも少しずつ立ち直ることができます。喜びにも悲しみにも慣れる、両方向の働きだと考えるとよいでしょう。
ヘドニック・トレッドミルと快楽順応は同じ意味ですか?
ほぼ同じ意味で使われています。快楽順応は心の働きそのものを指す言葉で、ヘドニック・トレッドミルはそれを「走っても前に進まないランニングマシン」にたとえた呼び名です。
宝くじに当たっても幸せにならないのですか?
1978年の研究では、当選者は一般の人とあまり変わらない幸福度でした。ただし調査の人数は少なく、その後の研究では違う結果も出ています。「お金がまったく意味がない」というより、「期待したほど喜びは長続きしにくい」と考えるのが妥当です。
気分の落ち込みが長く続くときはどうすればいいですか?
この記事で紹介した工夫は、一般的な心理学の知見にもとづくものです。気分の落ち込みが長く続く、日常生活に支障が出ているといった場合は、個人の状況によって異なるため、医療機関や公的な相談窓口などの専門家にご相談ください。
まとめ
快楽順応(ヘドニック・トレッドミル)は、新しいモノや良い出来事の喜びが、時間とともに薄れていく心の仕組みです。目新しさで気分が高まる新奇性効果と対になって働き、基準や期待が上がることで、喜びは少しずつ当たり前に変わっていきます。
一方で、最近の研究では、幸せの水準は条件しだいで変わりうることもわかってきました。変化をつける、感謝して味わう、あえて中断する、体験にお金を使う、小さな喜びをくり返す。この5つが、慣れに負けないための手がかりです。
まずは今日、身の回りで「当たり前」になっているお気に入りのモノを一つ選び、手に入れた日の気持ちを思い出してみてください。慣れた幸せに、もう一度目を向けることから始めましょう。
参考リスト
- Hedonic treadmill – Wikipedia
- Hedonic adaptation(Frederick & Loewenstein, 1999)
- ScienceAlert:宝くじ当選者と幸福度に関する記事
- Why Can’t I Be Happier? – Quick and Dirty Tips
- Beyond the Hedonic Treadmill – Revising the Adaptation Theory of Well-Being(DIW Berlin)
- The Challenge of Staying Happier: Testing the Hedonic Adaptation Prevention Model(Sheldon & Lyubomirsky, 2012)
- Hedonic Adaptation to Positive Experiences(eScholarship)
- How to Escape the Hedonic Treadmill and Be Happier – PositivePsychology.com
- Enhancing the Television-Viewing Experience through Commercial Interruptions(IDEAS/RePEc)
- Experiences Make People Happier Than Material Goods, Says CU Prof – CU Boulder Today
- To Do or to Have? That Is the Question(Van Boven & Gilovich, 2003)
- Hedonic adaptation – BehavioralEconomics.com
- 「何かを達成すれば幸せ」ではない、幸福感を持続させるための新習慣 – Forbes JAPAN
