はじめに
11月4日は、1922年にイギリスの考古学者ハワード・カーターが、ツタンカーメン王の墓へ続く階段を見つけた日です。ツタンカーメンの墓の発見は「20世紀最大の考古学的発見」と呼ばれ、100年以上たった今も、黄金のマスクとともに世界中の人をひきつけています。一方で、発見の直後から「墓を開けた者は呪われる」という噂もささやかれてきました。
👇 本記事でわかる3つの重要ポイント 👇
- 【テーマ1】ツタンカーメン王墓が見つかるまでの苦労と発見の瞬間
- 【テーマ2】「ファラオの呪い」の噂が広まったいきさつと科学的な検証結果
- 【テーマ3】発見から100年後、2025年に始まった秘宝の全点公開という最新事情
あきらめる寸前で訪れた大発見のドラマと、呪いの噂の正体を知ると、ニュースや展覧会でツタンカーメンを見る目が変わります。順番に見ていきましょう。
ツタンカーメンとはどんな王だったのか
ツタンカーメンは、今から約3300年前の古代エジプトで、わずか9歳ほどで王になり、18〜19歳ほどの若さで亡くなった少年王です。在位はおよそ10年と短く、生きていた時代にはそれほど目立つ王ではありませんでした。
ツタンカーメンが生きたのは、紀元前14世紀ごろの「第18王朝」と呼ばれる時代です。その少し前、アクエンアテンという王が、それまでの多くの神々をまつる宗教をやめて、太陽神アテンだけを信じる改革を行いました。ツタンカーメンは、この改革のあとで国を元の宗教へ戻した王として知られています。
亡くなったあと、ツタンカーメンはナイル川西岸の「王家の谷」に葬られました。王家の谷は、現在のルクソール近くにある、歴代の王の墓が集まる砂漠の谷です。墓の多くは古代のうちに盗掘(墓どろぼう)にあい、財宝はほとんど持ち去られていました。
ところがツタンカーメンの墓は、ほぼ手つかずの状態で残っていました。その理由のひとつは、のちの時代に近くで別の王(ラムセス6世)の墓を造ったとき、工事で出た土砂や作業小屋がツタンカーメンの墓の入り口をおおい隠したためだと考えられています。若くして急に亡くなったため、王の墓としては小さく、目立たなかったことも幸いしました。
ツタンカーメン王墓の発見までの道のり
ツタンカーメン王墓の発見は、何年も成果が出ず、「これが最後」と決めた発掘シーズンに起きた逆転劇でした。主役は、発掘を指揮したハワード・カーターと、資金を出したイギリス貴族のカーナヴォン卿の2人です。
画家として始まったカーターの人生
ハワード・カーターは1874年にロンドンで生まれました。もともとは考古学者ではなく、17歳のときに発掘現場で出土品や壁画を写し取る画家としてエジプトへ渡ったのが始まりです。現場での経験を積みながら、やがて発掘を指揮する立場になっていきました。
スポンサー・カーナヴォン卿との二人三脚
発掘には多くの人手とお金が必要です。カーターを支えたのが、第5代カーナヴォン伯爵ジョージ・ハーバート(カーナヴォン卿)でした。2人は王家の谷のどこかに、まだ見つかっていないツタンカーメンの墓が眠っていると信じ、何年も掘り続けます。
しかし、何シーズン掘っても大きな成果は出ませんでした。お金ばかりがかかる状況に、カーナヴォン卿も発掘の打ち切りを考えるようになります。カーターは説得を重ね、1922年秋のシーズンを「最後のチャンス」として認めてもらいました。
1922年11月4日、1段の階段が見つかる
1922年11月1日、カーターは最後のシーズンの作業を始めました。掘ったのは、ラムセス6世の墓のすぐ下に残っていた古い作業小屋の跡です。そして11月4日、小屋の下の岩盤から、岩を削って造った階段の1段目が見つかりました。
見つけたのが誰だったかについては、話が分かれています。カーター自身が出版した記録では、作業員が小屋の下を掘っていて見つけたとされています。一方で、水運びの少年が砂を掘っていて偶然見つけたという話も伝わっています。どちらにしても、発見はカーターひとりの力ではなく、現地エジプトの多くの作業員の働きに支えられていました。
階段を掘り進めると、その先に封印された扉が現れました。カーターはすぐに中へ入らず、イギリスにいるカーナヴォン卿に電報を打ち、到着を待ちます。カーナヴォン卿は娘のレディ・イヴリンを連れ、船と鉄道を乗り継いで11月下旬にエジプトへ到着しました。
「すばらしいものが見えます」発見の瞬間
ツタンカーメン王墓の発見がこれほど有名になった理由のひとつは、扉の向こうをのぞいた瞬間の、映画のような名場面にあります。
カーナヴォン卿の到着後、階段をすべて掘り出すと、扉にツタンカーメンの名前を刻んだ封印が見つかりました。そして11月26日、カーターは2つ目の扉に小さな穴を開け、ろうそくの明かりで中をのぞきこみます。後ろにいたカーナヴォン卿が「何か見えるかね?」とたずねると、カーターは次のように答えたと伝えられています。
「ええ、すばらしいものが」(カーターの回想より。英語では “Yes, wonderful things”)
カーターの回想によると、最初は奥から流れ出る熱い空気でろうそくの炎がゆれ、何も見えなかったそうです。目が慣れてくると、暗がりの中から奇妙な動物の像や彫像、そしてあちこちで輝く金が浮かび上がってきました。
そこは「前室」と呼ばれる部屋で、ベッドや椅子、戦車(馬が引く二輪車)などがぎっしりと詰めこまれていました。墓は前室・別室・玄室(ひつぎを納めた部屋)・宝庫の4つの部屋からなり、王のミイラが眠る玄室が正式に開かれたのは、年が明けた1923年2月16日のことです(翌17日とする資料もあります)。
発見の知らせは世界中へ
発見のニュースは、イギリスの新聞タイムズを通じて世界に伝えられ、たちまち大ブームになりました。カーナヴォン卿はタイムズ紙に取材の独占権を与えていたため、ほかの新聞社は独自のネタを探して必死になります。この新聞どうしの競争が、のちに「呪い」の噂を大きくすることになりました。
黄金のマスクと5,000点をこえる副葬品
ツタンカーメンの墓から見つかった副葬品(死者と一緒に納めた品物)は、全部で5,398点とされています。これほど多くの品がほぼそろった状態で見つかった王の墓は、ほかに例がありません。
主な出土品には、次のようなものがあります。
- 王のミイラの顔をおおっていた黄金のマスク
- 3重に重ねられたひつぎ(いちばん内側は純金製)
- ひつぎを囲んでいた、金をはった4重の木製の厨子(ずし)
- 玉座、ベッド、椅子などの家具
- 戦車、武器、宝飾品、衣服などの身の回りの品
- 死後の世界を守る神々の像
品数があまりに多かったため、カーターたちは1点ずつ写真を撮り、記録をとりながら運び出しました。すべての調査と記録を終えるまでには、およそ10年かかっています。写真家ハリー・バートンが撮った記録写真は、今も貴重な資料として研究に使われています。
なかでも黄金のマスクは、古代エジプトを代表する宝として知られるようになりました。ナショナルジオグラフィックによると、このマスクは23金で作られています。
「ファラオの呪い」の噂はなぜ広まったのか
「ファラオの呪い」の噂は、墓に書かれた呪いの言葉から始まったのではなく、カーナヴォン卿の急死と、それを大きく取り上げた新聞報道から広まりました。
カーナヴォン卿の急死
玄室が開かれてわずか数か月後の1923年4月5日、カーナヴォン卿はエジプトのカイロで亡くなりました。蚊に刺されたあとを、ひげそりのときにかみそりで傷つけてしまい、そこから感染症が全身に広がって、肺炎を起こしたとされています。カーナヴォン卿は、もともと自動車事故で体をこわしており、健康に不安をかかえていました。
しかし、世紀の大発見の資金を出した人物が、墓を開けてまもなく亡くなったことは、人々の想像をかき立てました。新聞には「ミイラの呪い」という見出しが並びます。シャーロック・ホームズの作者として有名な作家コナン・ドイルが、悪い霊のしわざかもしれないと語ったことも、噂に拍車をかけました。
あとから付け足された「呪いの犠牲者」たち
その後、発掘に少しでも関わった人や、墓を訪れた人が亡くなるたびに、新聞は「これも呪いだ」と書き立てました。なかには、墓とのつながりがはっきりしない人まで含まれていました。
よく語られる「墓の入り口に呪いの言葉が刻まれていた」という話も、確かな証拠は見つかっていません。古代エジプトの墓の中には、墓を荒らす者への警告文を刻んだものもありますが、ツタンカーメンの墓から呪いの文章が見つかったという記録はないとされています。
呪いの話は発見の前からあった
実は「ミイラの呪い」という発想は、ツタンカーメンより前から小説などに登場していました。たとえば『若草物語』で知られるアメリカの作家ルイーザ・メイ・オルコットは、1869年にミイラの呪いを題材にした短編を発表しています。こうした物語に親しんでいた人々にとって、カーナヴォン卿の死は「やっぱり呪いはあった」と感じさせる出来事だったのです。
ファラオの呪いを科学で検証すると
結論からいうと、統計を使った調査では、ツタンカーメンの墓に入った人が特に早く亡くなったという証拠は見つかっていません。
医学雑誌に載った「呪いの調査」
2002年、オーストラリアのモナシュ大学の疫学者(病気と集団の関係を調べる研究者)マーク・ネルソン氏が、イギリスの医学雑誌BMJに研究を発表しました。墓の封印が解かれたときや、ひつぎが開けられたときなど、「呪い」を受けた可能性がある場面に立ち会った欧米人25人と、その場にいなかった人たちの寿命を比べたものです。
| 比べたグループ | 亡くなったときの平均年齢 |
|---|---|
| 墓を開ける場面に立ち会った人(25人) | 約70歳 |
| 立ち会わなかった人 | 約75歳 |
この差は統計的に意味のある差ではなく、ネルソン氏は「呪いの存在を裏づける証拠はない」と結論づけました。ただし、調べた人数が少ないなどの限界があることも、論文の中で認めています。
そもそも、発掘を指揮したカーター本人は、発見から16年以上たった1939年に64歳で亡くなっています。墓にいちばん長く関わった人物が長生きしていることも、呪い説には不利な事実です。
カビが原因だったという説
呪いではなく「墓の中のカビが原因だったのでは」という説もあります。2003年には、医学雑誌ランセットに、墓に供えられた穀物などに育つアスペルギルスというカビを、カーナヴォン卿が吸いこんだ可能性があるという意見が載りました。カーナヴォン卿はもともと肺が弱かったため、影響を受けやすかったのではないかという見方です。
しかし、この説にも反論があります。最初に墓に入った欧米人のうち、すぐに病気になって亡くなったのはカーナヴォン卿だけだったという指摘です。1923年当時のカビの試料や診断の記録もないため、カビ説は「可能性のひとつ」にとどまり、証明はされていません。
まとめると、「ファラオの呪い」は、ひとりの有名人の不運な死、新聞の競争、そして昔からあった怪奇物語が重なって生まれた伝説だと考えるのが自然です。
発見から100年後のツタンカーメン
ツタンカーメンの秘宝は、発見から100年以上たった今、新しい博物館で初めて全点がそろって公開されています。
エジプト政府は、ギザのピラミッドの近くに「大エジプト博物館(GEM)」を建設し、2025年11月1日に正式に開館しました。一般公開は、王墓発見から103年目の記念日にあたる2025年11月4日に始まっています。この博物館では、それまでカイロのエジプト博物館などに分かれていたツタンカーメンの副葬品が、専用の展示エリアにまとめて展示されています。黄金のマスクも、ここで見ることができます(2026年11月時点の情報です。開館時間や展示内容は変わることがあるため、訪れる前に公式情報をご確認ください)。
研究の面でも、ツタンカーメンは今も注目の的です。2000年代以降は、ミイラのCTスキャン(体の内部を輪切りに撮影する検査)やDNA解析が行われ、王の家族関係や健康状態について新しいことがわかってきました。一方で、亡くなった原因など、まだ答えの出ていない謎も残っています。
また、近年は「発見はカーターひとりの手柄ではなかった」という点にも光が当たっています。実際に土を掘り、重い品物を運び出したのは、多くのエジプト人作業員でした。現地の人々の働きを正しく伝えようという動きも、100年をこえた今の新しい流れです。
よくある質問
ツタンカーメンの墓が発見されたのはいつですか?
墓へ続く階段の1段目が見つかったのは、1922年11月4日です。カーターがのぞき穴から中を見たのは同じ月の11月26日、王のミイラが眠る玄室が開かれたのは1923年2月16日でした。そのため、資料によっては発見日を11月としたり、別の日付を紹介したりすることがあります。
ファラオの呪いは本当にあるのですか?
科学的な証拠はありません。2002年に医学雑誌BMJに載った研究では、墓を開ける場面に立ち会った人と、立ち会わなかった人の寿命に意味のある差は見られませんでした。噂は、カーナヴォン卿の急死を新聞が大きく報じたことから広まったと考えられています。
カーナヴォン卿は何が原因で亡くなったのですか?
蚊に刺されたあとをひげそりで傷つけ、そこから感染症が広がって肺炎になったとされています。墓のカビが関係したという説もありますが、当時の試料や記録がなく、証明はされていません。
ハワード・カーターも呪いで亡くなったのですか?
いいえ。カーターは発見から16年以上たった1939年に、64歳で病気のため亡くなりました。墓の調査にいちばん長く関わった人物が、その後も長く生きたことは、呪い説を否定する材料のひとつとされています。
ツタンカーメンの黄金のマスクはどこで見られますか?
2026年11月時点では、エジプト・ギザにある大エジプト博物館で展示されています。2025年11月の開館にあわせて、ツタンカーメンの副葬品がまとめて公開されるようになりました。展示内容は変わることがあるため、訪れる前に最新情報をご確認ください。
まとめ
1922年11月4日、何年も成果が出ず「最後」と決めた発掘シーズンに、ハワード・カーターのチームはツタンカーメン王墓へ続く階段を見つけました。ほぼ手つかずで残っていた5,000点をこえる副葬品は、少年王の名前を世界一有名なファラオへと押し上げました。
一方で「ファラオの呪い」は、カーナヴォン卿の不運な死と新聞の報道合戦から生まれた伝説で、統計を使った調査でも裏づけは見つかっていません。本当に驚くべきなのは呪いではなく、あきらめかけたところでもうひと掘りした人々の粘り強さだといえます。
次にツタンカーメンの展覧会や特集番組に出会ったら、ぜひ「この品は1922年の最後のシーズンがなければ見られなかった」という視点で眺めてみてください。大エジプト博物館の公式サイトで、今の展示の様子を調べてみるのもおすすめです。
参考リスト
- Howard Carter – Wikipedia
- The Discovery of Tutankhamun’s Tomb – World History Encyclopedia
- Entrance to King Tut’s tomb discovered – HISTORY
- Carter finds King Tut’s tomb – OUPblog
- How was Tutankhamun’s Tomb Discovered? – History Hit
- TAA iv.01.04(玄室開封の記録)- Griffith Institute, University of Oxford
- The mummy’s curse: historical cohort study(BMJ, 2002)
- Was It Really a Mummy’s Curse? – JSTOR Daily
- What is the ancient Egyptian ‘mummy’s curse’? – Live Science
- A 2002 Study of 25 People at Tutankhamun’s Tomb Openings Found No Evidence of a Curse – Ancient Origins
- There’s a Surprisingly Mundane Explanation for King Tut’s Curse – ScienceAlert
- Grand Egyptian Museum – Wikipedia
- The Grand Egyptian Museum is opening in full – National Geographic
- 「ツタンカーメンの墓」発掘当時の写真をカラー化するプロジェクト – カラパイア
- ツタンカーメン王の墓発見(1922年)- 現代ビジネス(ブルーバックス)
- ナショジオ ツタンカーメン関連書籍紹介 – 日経BOOKプラス

