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【11月6日】アパート記念日の由来|日本初の木造アパート「上野倶楽部」と集合住宅の歩み

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はじめに

毎日なにげなく暮らしているアパートやマンション。日本で最初のアパートがいつ、どこに建ったのか、考えたことはありますか。11月6日の「アパート記念日」は、その答えにつながる記念日です。明治の終わりに東京・上野に現れた木造5階建ての建物から、日本の集合住宅の物語は始まりました。

👇 本記事でわかる3つの重要ポイント 👇

  • 【テーマ1】アパート記念日と「上野倶楽部」の由来
  • 【テーマ2】明治のアパートの設備と住人の暮らしぶり
  • 【テーマ3】軍艦島・同潤会から現代までの集合住宅の歴史

今では日本の住宅の4割以上が共同住宅です。その出発点を知ると、いつもの住まいが少し違って見えてきます。116年前の上野へ、さっそく出かけてみましょう。

アパート記念日とは?11月6日の由来

アパート記念日は、1910(明治43)年11月6日、東京・上野に日本初の木造アパート「上野倶楽部」が完成したことにちなむ記念日です。2026年で、完成から116年になります。

Forbes JAPANの記事では、この日を、一戸建てから集合住宅へと住まい方が変わっていく転換点を象徴する日として紹介しています。今のアパートやマンションのルーツを振り返る日、と考えるとわかりやすいでしょう。

なお、完成した日については、多くの記念日サイトが11月6日としている一方で、「1910年3月14日に完成した」と書く記念日サイトもあります。記念日として定着しているのは11月6日ですが、完成の日付には別の説があることも覚えておくとよいでしょう。

日本初の木造アパート「上野倶楽部」はどんな建物だった?

上野倶楽部は、上野公園の不忍池(しのばずのいけ)のほとりに建てられた、洋風の外観をもつ木造5階建ての賃貸住宅でした。当時の地名では、上野公園に隣接する花園町にあったと伝えられています。

明治の初めごろの借家といえば、時代劇や落語でおなじみの平屋の長屋がほとんどでした。長崎や横浜など外国人の居留地だった場所には洋風の借家も建ちましたが、木造で5階まで部屋が積み重なった賃貸住宅は、当時としてはとても珍しい存在です。

部屋数は「70室」と紹介されることが多いものの、資料によって数字が異なります。主な説をまとめると、次のとおりです。

項目 多くの記念日サイトの説明 ほかの説
完成日 1910年11月6日 1910年3月14日
規模 木造5階建て・70室 60戸(70室)、63戸、63室
住人 独身者はいなかった 約4割が独身者だった

記録が少ない明治の建物のため、細かい数字は資料ごとに少しずつ違います。「木造5階建てで、60〜70ほどの住まいが入った大きなアパート」と理解しておけば、大きくは外れません。

設備と暮らしのルール

上野倶楽部では、洗面所・浴室・電話が住人の共同利用でした。お風呂に入るときは、住人がその都度、実費を払う仕組みだったといいます。

日本初のアパートを詳しく紹介している解説サイトによると、ほかにも次のような特徴があったとされています。

  • 各部屋に水道とガスが通り、簡単な炊事ができた
  • 各階に便所と洗面所が2か所ずつあった
  • 事務員が3人いて、電話の取り次ぎや買い物を手伝った
  • 嘱託医(しょくたくい:契約しているお医者さん)がいて、急病のときは30分以内に駆けつける約束だった
  • 共同の設備を長く使わない、廊下で立ち話をしない、門限は夜12時、といった決まりがあった

共同のお風呂や電話があり、管理人のような人が身の回りを手伝ってくれる――。今でいえば、サービス付きのシェアハウスに近い暮らしだったのかもしれません。

どんな人が住んでいたのか

住人は、公務員(当時の言い方では官公吏)、会社員、教師が中心でした。日本人だけでなく、ロシア人やフランス人も住んでいたと伝えられています。

家賃のくわしい金額は確認できませんでしたが、住人の顔ぶれを見ると、都会で働く知識層向けの、ちょっとハイカラな住まいだったことがうかがえます。江戸の暮らしの延長にあった長屋とは、まったく違う空気が流れていたはずです。

詩人・西條八十と童謡「かなりや」

上野倶楽部には、詩人の西條八十(さいじょう・やそ、1892〜1970年)が住み、童謡「かなりや」を作詞したと伝えられています。西條八十は、のちに「東京行進曲」「青い山脈」「王将」などの歌詞を手がけた、昭和を代表する作詞家です。

解説サイトによると、西條八十は1918(大正7)年ごろ、家族を神田の家に残して、上野倶楽部の4階で暮らしていました。訪ねてきた妻と幼い長女と一緒に上野東照宮のあたりを歩いていたとき、「かなりや」の詩が浮かんだという話が残っています。

「かなりや」は、鈴木三重吉が1918年に創刊した児童雑誌『赤い鳥』に発表されました。神奈川県立図書館の資料によると、『赤い鳥』は当初、曲の付かない「童謡詩」を載せていましたが、やがて詩に曲が付けられて歌われるようになり、大きな注目を集めました。

その先がけとなったのが「かなりや」です。成田為三が曲を付け、曲の付いた童謡として初めて発表された作品とされています。立教大学の論文によると、1920年には「かなりや」などを収めたレコードが「初の童謡レコード」として発売されました。日本の童謡の歴史は、日本初のアパートの一室とも、意外なところでつながっていたのです。

上野倶楽部のその後と日本のアパートの歩み

上野倶楽部の建物は、現在は残っていません。1943(昭和18)年に自らの建物から出た火事で焼けたとする説と、東京大空襲で焼けたとする説があります。1923年の関東大震災では焼失や倒壊をまぬがれたと伝えられています。

上野倶楽部が完成してからの約半世紀で、日本の集合住宅は木造から鉄筋コンクリート造(RC造:鉄の棒を入れて固めたコンクリートで造る丈夫な建て方)へと大きく進化しました。主な出来事を年表にまとめます。

年 できごと
1910年(明治43年) 東京・上野に木造アパート「上野倶楽部」が完成
1916年(大正5年) 長崎県の端島(軍艦島)に鉄筋コンクリート造の「30号棟」が完成
1923年(大正12年) 関東大震災が発生し、木造住宅が密集した市街地が大きな被害を受ける
1924年(大正13年) 震災復興のため「同潤会」が設立される
1925年(大正14年) 東京・御茶の水に「文化アパート」が完成
1943年(昭和18年) 上野倶楽部が焼失したとされる(東京大空襲で焼けたとする説もある)

軍艦島の30号棟:現存する最古の鉄筋コンクリート造アパート

日本建設業連合会の資料によると、長崎県の端島(はしま、通称:軍艦島)にある30号棟は、1916年に完成した日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅です。炭鉱で働く人のための社宅で、東京大学の記事によると140戸からなり、当初の4階建てがのちに7階建てまで増築されました。

端島は周囲およそ1.2kmの小さな島ですが、最盛期には5,000人以上が暮らし、人口密度は世界一ともいわれました。限られた土地にたくさんの人が住むために、高い集合住宅が必要だったのです。30号棟は老朽化が進んでいるため、現在は建物の中に入ることはできません。

同潤会アパート:震災が生んだ「都市型集合住宅の原点」

1923年の関東大震災では、木造の家が密集していた市街地が大きな被害を受けました。UR都市機構の資料によると、復興のために1924年に設立された同潤会は、東京と横浜の16か所に鉄筋コンクリート造のアパートを建て、その後の日本の集合住宅の基礎を築きました。

同潤会アパートは、電気・ガス・水道・水洗トイレといった、当時最新の設備を備えていました。表参道の「青山アパートメント」は建て替えられましたが、現在の表参道ヒルズの一角に、その外観を再現した「同潤館」があります。

御茶の水の「文化アパート」:本格的な高級アパート

大林組の社史によると、1925年に完成した御茶の水の「文化普及会文化アパート」は、地下2階・地上4階、42戸103室の最高級住宅でした。六畳一間の家賃が60円と、大学卒業者の初任給が35円ほどの時代としては非常に高く、入居者の6割は外国人だったといいます。大林組はこの建物を「日本における最初の本格的アパート」と紹介しています。

つまり「日本初のアパート」といっても、「木造なら上野倶楽部」「鉄筋コンクリート造なら軍艦島30号棟」「本格的な高級アパートなら文化アパート」と、何を基準にするかで答えが変わるのです。

数字で見る今の日本の集合住宅

上野倶楽部の時代から100年あまりで、共同住宅は日本の住まいの中心の一つになりました。総務省統計局「統計Today No.202」が紹介している住宅・土地統計調査の結果をもとに、人が住んでいる住宅の数を比べてみます。

項目 1958年 2023年
一戸建 1,346万1千戸 2,931万9千戸(約2倍)
共同住宅 97万2千戸 2,496万8千戸(約26倍)
住宅全体に占める共同住宅の割合 5.6% 44.9%

2023年の共同住宅の数と割合は、どちらも過去最高です。およそ65年で、共同住宅に住む世帯の割合は1割にも満たなかった状態から4割台半ばまで増えたことになります(数字は2023年10月1日時点の調査結果で、1958年の値は沖縄県を含みません)。

建物の高さも大きく変わりました。同じ資料によると、2023年には鉄骨や鉄筋コンクリートなどで造られた15階建以上の共同住宅が115万1千戸となり、初めて100万戸を超えています。木造5階建ての上野倶楽部が「高い建物」だった時代からすると、まさに隔世の感があります。

「アパート」と「マンション」の違いと言葉の由来

「アパート」という言葉は、英語のアパートメント(apartment)をもとにした和製英語です。フランス語では「アパルトマン(appartement)」と呼ばれます。建物の中をいくつかに区切り、それぞれを独立した住まいとして使う集合住宅を指します。

一方、日本では比較的大きく豪華な集合住宅を「マンション」と呼ぶことが多くあります。しかし英語のマンション(mansion)はもともと「豪邸」という意味で、集合住宅をマンションと呼ぶ使い方は日本でしか通じません。

日常の会話では、木造や軽量鉄骨の2階建て程度の建物を「アパート」、鉄筋コンクリート造の中高層の建物を「マンション」と呼び分けることが多いようです。ただし、この呼び分けは不動産会社などの慣習によるもので、はっきりした決まりがあるわけではありません。

よくある質問

アパート記念日はなぜ11月6日なのですか?

1910(明治43)年11月6日に、東京・上野で日本初の木造アパート「上野倶楽部」が完成したことにちなんでいます。ただし、完成日を3月14日とする記念日サイトもあり、完成の日付には別の説もあります。

上野倶楽部の建物は今も見ることができますか?

見ることはできません。1943年に火事で焼けたとする説と、東京大空襲で焼けたとする説があり、建物は現存していません。

今も残っている日本最古の集合住宅はどこですか?

鉄筋コンクリート造のアパートとしては、1916年に完成した長崎県・軍艦島の30号棟が、現存する最古のものとして知られています。ただし老朽化が進んでいるため、上陸ツアーに参加しても建物の中には入れません。

アパートとマンションに決まった違いはありますか?

はっきりした決まりはなく、一般には木造や軽量鉄骨の低い建物を「アパート」、鉄筋コンクリート造の中高層の建物を「マンション」と呼ぶことが多いようです。なお「マンション」を集合住宅の意味で使うのは日本独自の使い方です。

まとめ

11月6日のアパート記念日は、1910年に東京・上野で日本初の木造アパート「上野倶楽部」が完成したことにちなむ日です。木造5階建てで、共同のお風呂や電話を備え、公務員や教師、外国人までが暮らしたこの建物は、長屋が当たり前だった時代の「新しい住まい方」の始まりでした。

その後、軍艦島の30号棟や同潤会アパートを経て、日本の集合住宅は鉄筋コンクリート造の時代へと進み、今では住宅の4割以上が共同住宅です。西條八十が「かなりや」を書いた部屋から、私たちの住むアパートやマンションまでは、一本の道でつながっています。

アパート記念日をきっかけに、自分が住む建物や近所の集合住宅がいつ、どんな造りで建てられたのかを一度調べてみてください。身近な建物にも、その時代ならではの物語が隠れているはずです。

参考リスト

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